竹中半兵衛の墓

付近住所 三木市平井


一世の軍略家として知られた竹中半兵衛重治は、初め斉藤龍興に属し、後に織田信長に従い、秀吉と共に各地に転戦し殊勲を立てました。しかし、三木城攻防戦がたけなわの頃、平井山の陣中に胸を病み、一時は京都に移って療養していましたが、固着した戦況を心配し此の地に帰ってきました。けれども、病魔には勝てず天正7613日、36歳の若さをもって永歿しました。臨終の時、秀吉に対して将来の「天下人」と予言し息を引き取りました。秀吉は「お先まっくら」と人前もはばからず遺体にとりすがったといわれています。半兵衛36才、秀吉44才だった。秀吉と半兵衛が主従になったのは約10年前、秀吉はまだ織田軍の一将校にすぎなかった、その頃半兵衛は旧主稲葉城を斉藤龍興と意見が合わず美濃(岐阜県)栗原山に引きこもっていたが戦国の諸将からは“大もの”としておそれられていた。その大ものを味方に引き入れたのは秀吉、10日間も門前払いを食わされたあげく、やっと面会を許されかつぎ出しに成功した。半兵衛は無学ぶりとおろかさをさらけ出して出馬を口説いた秀吉の人間的な魅力に負けたようだ。いらい二人は主従を越えた深い友情に結ばれたのである。実力主義の時代とはいえ織田軍の一将校にすぎなかった秀吉を関白太政大臣までのし上げた陰の力 その偉大さ、半兵衛から経営上の新しい戦略を学びとろうと今も尚、参拝される方の多いのも当然のことである。この墓の維持の為にはその昔から竹中山と称する山林1ヘクタールが村山として残され毎年613日は村の老若男女が皆業を休んで供養を続けている。